【最新】ゴールデンロック楽しすぎ【記事はコチラ】

【人生】日本の働き方に対する疑問と不安【迷走】

日本の働き方に対する疑問

最近働く上でモヤモヤしている。

これまでの人生だと、自分がやりたいことを実現するために、それが実現できそうな環境に入るための能力を身につける努力をしてきた。そのおかげで、英語だったりWEB開発だったりアプリ開発だったり事業企画のスキルが身についた。他環境でも応用が効くし、実際に働く上で役立ってるから努力の方向性は間違ってなかったと思ってる。

自分がやりたいことは「海外で暮らしたい」で、それを実現できる会社でいま実際に働くことが出来ていることは、とても幸せなことなんだと思ってる。有難いことに十分な給料も頂けているので暮らしに不満はない。

ただ「日本の働き方」みたいなものを続けていると個人として詰む気がしていて、それを言語化したくてこの文を書いている。

日本と海外の働き方の仮説

なんで海外で働きたいって思ったのかを突き詰めてくと、海外の組織であれば「個人の意思と能力を尊重する文化がある」っていう仮説が、自分の中にあったからだと思う。

個人が自らの役割やミッションを自らで定義して遂行していく中で成果を出していく文化が自分は好きだ。その成果を集合させていくことで個人以上の成果を組織として生み出せる様な組織に憧れている。

もちろん組織の中には、個人として成果を生み出せずに他者が生み出した成果に乗っかるだけのフリーライダーもいる。自分はそういう人を組織から積極的に排除していきたいし、自分が組織にとってそういう人であるならば排除されたい。

その価値観が前提にあるからこそ、個人が努力してスキルを改善していく動機となるし、個人としてスキルを売るコトで給与を改善できる。逆にいえば、組織がスキルの低い個人を雇わなくて良いし、組織として高いスキルを持つ個人には高い給与を払う必要がある。

日本だとその価値観をもつ会社はまだまだ少なくて、もし上記みたいな価値観をもつ個人が真逆の価値観をもつ組織で働こうとすると、個人として損しかしない気がする。

なぜなら、真逆の価値観をもつ組織はスキルの低い個人を雇い、高いスキルを持つ個人に低い給与を支払う。そして、個人はスキルを改善せず、スキル以外の忖度で給与を上げようとするから。

日本の組織は真逆の価値観をもちながら海外の価値観を歪んで解釈して、「自己成長」っていう綺麗な言葉に包まれたスキル改善の義務のみを個人に課して、「評価」っていうぼやけた指標をつかって高い給与を得る権利を個人から奪っているような気がする。

だとすると、個人は何を動機に組織で働くのだろう。

組織に給与を依存する不安

現状の給与に対して不満があってこの文章を書いている訳じゃない。ただ、組織内における評価は能力だけで決まらないのが現実だし、能力ではなく雇用形態による明確な給与格差があることは事実だと思っている。

その状況の中で自分の暮らしに直結する給与を、現状の組織に依存するのは危険だし不安を感じている。

日本の働き方に対する仮説を検証したい

海外で働きながら日系企業で働く今の自分が感じている不安の原因が、「日本の働き方」なのかどうかは、まだ仮説でしかないから分からない。海外で働いた経験はインターンを含めて2社だけど、そのいずれも日系企業だったから。

もしかしたら「個人の意思とスキルを尊重する文化」ていうのは日本にいるベンチャー企業なら持っているかもしれないし、海外の大手外資系企業でも持っていないかもしれない。その企業の国籍だけではなくて、経営者自身の価値観会社を構成する規模も文化には影響しているとも思う。

いずれにせよ試してみないと分からないから、次は企業の国籍を変えることで仮説を検証してみる。それでも不安が拭えないなら、組織に給与を依存しない生き方を考えてみよう。